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2014年3月 7日 (金)

愛知県の高校生への講演会で配られた私の駄文。。。。「アメリカで仕事をするということ。」

アメリカで仕事をするということ。

 奥山 英二 NY州弁護士・米国公認会計士

 http://houmubu.weebly.com/

 

高校生の皆さん向けにというリクエストを頂き、30数年前に自分がどのような高校生だったかを思うと、「先進国で仕事をしてみたい」という人間ではなかったと思い出すと、そうしたことに思いをめぐらせ質問したいと思う皆さんを頼もしく思うのです。ここに私が述べるお話は、私が2つずつしか持ち合わせのない目と耳で見聞きし、私が過去20年の米国での生活で感じたことですので、代表的でもなければ絶対的でもなく、単なる一例に過ぎません。「そんなこと判っている」と軽くいなされるかも知れませんが、一応念のために申し添えておきます。

もう一点。私の経験が、日本企業からの派遣で駐在という立場の経験ではないという点です。日本企業からの駐在は、会社に少なくとも複数人の日本人が居て、アメリカにやってきた日には空港に誰かが出迎えてくれて、会社が住居費等を全部負担してくれる。そんな海外勤務の形態です。現地の従業員からは、日本の本社から来たある意味「お客さん」なのです。私のそれは、30歳を過ぎて嫁さんと子供一人を連れて自費留学をして、資格を取って、現地で採用してくれる企業を探して、就職しました。そのような体験からアメリカ人社会には決して「お客さん」扱いはされないで過ごして来ました。そのような者からの視点でのお話であるとまずご理解ください。また、私の経験は、「先進国」の中でも「アメリカ合衆国」に限定されていることも申し添えさせていただきます。

その中でいくつかの感想と感慨を持ってきたエピソードをこれからお話してまいりたいと思います。キーワードは「多様性」「自主性」「責任」です。ひとつずつ、紐解いてまいりましょう。

「多様性」が形作るアメリカ「合衆」国

アメリカが多様な文化、人間、価値感からなると言われて、頭で理解していても「職場」という組織の中でなるほどこうもこうした「多様性」を受容する度量が経営サイドに求められるのかと思う瞬間は、アメリカで仕事をしているとあるものです。

人事政策は会社ごとに大きく違うのですが、働き方の幅は大きく違います。私が働いているニューヨークの法律事務所では総務部長的な人間であるOffice Managerがフロリダに引っ越すことになりました。ご主人の仕事の都合です。私はフロリダとニューヨークですので遠く離れていますから当然退社するのかと思いきや、この女性Office Managerは、「遠隔地からでも仕事できるから」と、自分の仕事を継続してフロリダからTelecommute(自宅勤務)しています。こうした提案をして、上層部(Managing Partner)たちを説得し、事実、彼女の部下が彼女のOffice内の目になり、足になり、手になることで、事務所の運営は何事も無かったかのようにスムーズに回っています。その間、事務所の引越し、事務所の創設100周年記念行事など大きな節目の事業を難なくこなして、これまでと変わりなく、事務所の日々の運営に関するメールが彼女から飛んできます。メールが仕事をする主たるツールになっている現代だから出来る働き方といえるかもしれませんが、誰も思わなかったこれだけ遠距離のTelecommute(テレコミュートといいます)を実現する土壌は、お互いに「多様性」を受容するところにあると思うのです。事務所には6時過ぎに最初の従業員が出勤し始めて、最初に帰り始めるのは午後2時過ぎです。弁護士は9時から10時ごろが多く、大抵夕方6時過ぎまで事務所に居ます。弁護士は時間給ではありませんので、いつからいつまで居なくてはいけないということも無く、タイムカード(今はPCの上にチェックインすることになりますが)にスタンプを押す必要もありません。これまで会計事務所2つ、法律事務所3つで働きましたが、今の事務所が一番多様な時間で「勝手に?」働いている印象です。これは、コアタイム(一日の内、この時間だけは居なさいという時間帯)をどう決めるかによるわけですが、書類をドンドンと回していくことで仕事が出来る今の事務所では、コアタイムをお昼ごろの2時間に絞っている事で実現した多様性です。

「多様性」のお話をさせていただくときにいつも思い出すのは、人種の多様性、文化の多様性、言語の多様性です。これらを作り出しているのは、「人」であります。人種はまさに「人」が背負ってきた歴史ですし、文化も歴史的な産物です。言語もしかりです。最初2つの会計事務所で勤務したときにはそれほど思わなかったのですが、法律事務所に入ると途端にユダヤ人の比率が上がります。クリスマスを祝わないユダヤ人は、代わりにハヌカ(Hanukkah)を祝います。クリスマスとはちょっと違った時期にユダヤ人のお祭りに休みを取る弁護士やスタッフが出てくるのです。事務所はこれをしっかり尊重しなければならないわけです。多分何年か居ると当たり前になっていることが、今思い出すと不思議であった時期がありました。人種で言えば、黒人、ヒスパニック、アジア人、アメリカンインディアン、もちろん白人などなど、多様な人種が混在しているアメリカですが、それぞれの黒人も、ヒスパニックも、アジアも、白人も細かく言えば違っていて、今でもドイツ語しか話さない人口が数十万人アメリカ国内には住んでいたりするのです。私の自宅はMaryland(メリーランド)州にあります。北隣のペンシルバニア州とここメリーランド州にはドイツ移民が沢山定住しました。ほとんどは、他の人種と交じり合ったのですが、絶対に自身の文化を守ると頑張って入植当時の生活(17世紀のEuropeでの生活)を守っているAmish(アーミッシュ)というグループが居たり、Mennonite(メノナイト)という同様の文化を守っている人々が居たりします。電気も電話も自動車も無い生活を営んでいる人々です。

宗教的な観点から言えば、全人口の20%強くらいは、プロテスタントの中でもEvangelical Church(福音派)と呼ばれる人々で、南部や中西部の一部の州では多数派を占めていて、今でも禁酒、非常に敬虔にキリスト教を信仰しています。聖書に書いてあることがすべて正しい、だからこの世界は神によって7日間で作られたので、「ダーウィンの進化論はおかしいから、学校で教えるな!」などと主張して、自分の子供たちに進化論を教えてほしくないがために、公立の学校を避けて、福音派の私立の学校を大学まで出すという人が結構沢山いるのです。

話が脱線してしまいましたが、「多様性」すなわち「人と違う」ことを素直に受け入れることがアメリカで仕事をする上で結構重要なのです。従業員、仲間、上司からどのような提案を受けても考えてみて、出来そうだったら受け入れる。それがアメリカの不思議な国の形「合衆」国を形作っているのだと思うのです。

「自主性」がないと評価されない

指示を待っているとアメリカの職場では結構取り残されます。言われたことだけしっかりやっていればよいという考え方は、少なくとも私の立場、弁護士であり、公認会計士であり、コンサルタントであり、ある種のプロフェッショナルであるという身からは、実感として感じます。

私は自分で会社を経営しています。小さな会社でほんの少数の従業員しか居ません。全員私の直属の部下という立場でアシスタントして働いてもらっています。その中で、結局同じ人が昇給していくのです。不思議なことに。

でもこれはけして「不思議」でかたづけられるものでも、私のえこひいきでもなく、仕事を振ると「自主的にやってほしいな」と思っていたこと以上に返され続けるとどうしても評価が高くなります。もちろん、その従業員にも欠点はありますので、その人が出来そうもないことは他に振る。そして、すべての仕事は私の責任で外部(お客様)に提供されるので、私が全部チェックします。

アメリカでは「年功給」がありません。長く勤めていても「長く勤めている」こと自体で「給料が上がる」ことはありません。仕事の経験値が上がって、そのせいで給料アップするのですが、私のアシスタントの例で言えば、給料がこの7年間で5割以上上がったアシスタントが居る一方で、上昇率0%も居ます。

仕事を振ると、その仕事が帰ってきます。内容が期待以上であったり、「こうすると良いと思ったのでこうしました」「結果、このような無駄を減らしました」という報告が付いて、頼んだ仕事が出来上がって戻ってくる人と、言われた仕事を言われた通りにしかやらない人がいるのです、確かに。

アメリカでどのような分野でも成功する人は前者のような人です。

日本でも同じと思いますが、アメリカでは給料の増減ですぐに反映されます。それは、日本のように職歴に3つ以上の会社が並ぶと好ましく思われないとか、そうしたバイアスが一切掛からない社会だからです。ひとつの会社にずっと居て、給料も安い、、、「能力がないのだな、こいつ」くらいにしか思われないのがアメリカ社会です。

日本人マネージャーとしてアメリカ人を使っていると、「私の給料はどうして上がらないのか」と問い詰められることは必ずあります。そのときに管理者(マネージャー)として、適切な物差しものさしを用意していないと、従業員の信頼を得ることは出来ません。男女、年齢、好き嫌い、美人かどうか、性的嗜好、ハンディキャップがあるとか、そうしたことで給料が決まった場合、すべて「差別」とされて、従業員に訴えられる世界がアメリカ社会なのです。

「自主性」は大きな意味では「能力」の一部かもしれません。これを皆が強くもっているために嫌だと思うことも出てくるので、「会社を辞め、別の会社に転職する」ということが繰り返されます。これが、労働者がいつも流動的に動いている状態を作り出し、優秀な人はより高い給料を貰っていく社会になっているのです。アメリカでは失業率が5%なら完全雇用(転職している途中の人を除けば働きたい人が全員雇用されている状態)の状態だと言われています。日本の完全雇用は失業率が2%くらいと言われていることを考えると、いかに「転職中」の人が多いことが分かります。転職は究極の自主性の発露と思うのは私だけでしょうか?まあ、転職・職探し中の方には首になって「失業している」人も沢山居ますので、すべてが自主的ではありませんが、アメリカ社会は、ある意味自分勝手、よく言うと「自主性がある」社会なのです。

「責任」の取り方の違い

日本人は「責任を取って辞任します」ということが多いです。何か、自ら辞めるということが、自ら命を絶つ、切腹につながるひとつの価値感に思うのですが、ほとんどのアメリカ人は「責任を取って辞任します」とコメントを残して職を辞することが無いように感じます。

なぜかなと考えたのですが、社会の仕組みが、例を株式会社に求めると株主を頂点とする所有者と、社長までも含めて一人残らず従業員で構成される会社という構図で大体出来ていると思うのです。

頂点に立つ大統領も殺されない限り辞めたのはニクソン大統領だけで、これも弾劾裁判に掛けられて辞任に追い込まれるのは必死と考えた末に辞めたのであって、そうでもなければ辞めなかったのです。弾劾裁判という唯一の大統領を「首」に出来るシステムを発動して、初めて大統領が辞任したことに象徴される社会なのです。「首にならない限り、辞めない」という思想は、社会の隅々に行き渡っていて、アメリカで「引責辞任」が少ない理由はそこにあるように思うのです。

一方で「首になったことがそれほど大きな傷にならない」のも事実で、野球の監督などもオーナーから首を言い渡されてすぐに別の球団に監督として招聘されるというようなこともあるのです。

普通の従業員レベルの話になると、アメリカの会社の人事担当者になると、辞めさせたい従業員から「じゃあ、首にしてくれ」と言われるそうです。腹切りの文化がないせいもありますが、実は、「首にならないと失業保険が最大限出ない」という事情もあるようです。そして、抵抗無く首にする理由の一翼を担っているのは「労使双方がいつでもこの労働契約を解除できる」という基本的な労働構造があります。

そうなると「責任」を取って辞めます、では、無くて、「俺が悪いことをしたと思うのなら、首にしてくれ」が横行し、職場を離れても「責任」を取らないことが、ひとつのノーマルな行動規範になるのです。

じゃあ、責任を取らせる方法は無いのでしょうか?訴訟がその代表的な手法であるのです。それが訴訟社会につながったというのが私の考えです。

まとめ

3つのキーワード「多様性」「自主性」「責任」から、お話をさせていただきました。アメリカ社会、そして、そこで働く際に直面する問題は、小さなことも含めれば沢山あります。これは、学校でいろいろな問題が起きるのや、日本の社会でもいろんなことが起きているのと同じです。

今日、これを見聞きされた皆さんは将来アメリカで私のように地べたをはいずりまわって生活する方もいるかもしれませんし、管理者として駐在するかもしれません。どのようなお立場で関わったとしても、旅行者としてでは見えないアメリカ社会の姿を数年間、アメリカで仕事をされることで経験されると思います。ここでお話したことは数年の滞在で身について当然のことになると思いますが、今の段階で、日本とは少なくとも3つの観点から結構違っているから、生じる軋轢があるのだということに気づいて頂けたら、本稿を起こした甲斐がありました。

無限の可能性がある皆さんにアメリカ社会はまだまだアメリカンドリームを抱かせ、成功者を生み出す活力をみなぎらせている社会だと思います。アメリカ留学、米国で就職、アメリカで起業、日本の会社からアメリカ進出、アメリカ子会社の設立、アメリカ子会社への転勤などなど、さまざまなアメリカとの関わりが出来るかと思いますが、そのときに頭の隅っこに今日のお話が残ってくれていたら幸いです。

 

 

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